永遠のいのちのなかでの今日ということは、仏の尊いいのちをいただいていきるところにはじめていえることなのです。そういう今日に立つことができれば、それが本当のしあわせだといえます。阿難がお釈迦さまの尊容にふれたということは、三世のなかの今日に出会ったということです。過去,現在,未来をつらぬくまことの法に逢ったよろこびが阿難のうえにあらわれているのです。藤代氏はわかりやすく次のように言われています。 「親からもらった私では百年しかわかりません。誰それさんが世話して私のお袋と親父が結婚して生まれたのがこの身だという程度の身です。このような身というものはきわめて不安の身だと思います。それに対して無量寿のなかの私は不安がなくなった私といっていいと思います」永遠のいのちにふれ、光に包まれた生であり、仏の智慧をいただいているから不安がなくなるということであります。ただ、百年のいのちを生きるだけならばいのち終わってどうなるのだろう、どこへ行くのだろうと不安になりますが、それがなくなるということです。
(大乗1月号より) |
【今月の予定】 | |||
2月 9日 | 定例法座 | 午後1時 | 毎月の定例法座です |
2月16日 | 宗祖親鸞聖人御命日 | 午後1時 | 宗祖親鸞聖人の御命日です |
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